栃木県市貝町
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2015年12月25日 更新
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町長コラム(平成27年分)
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平成27年12月
立冬も過ぎ、日ごとに寒さが厳しくなってくるころ、突然春の陽気を感じさせるようなおだやかで暖かい日がやって来ます。こういう日のことを小春(こはる)というのだそうです。小春ということばには、愛くるしい可愛らしさを感じさせることから、女性の名前によく付けられたものです。十月末に市貝町の小春のような女性の皆さんに役場に集まっていただき、意見をおうかがいする機会を得ました。
 まず結婚対策について、町では結婚相談員を委嘱していますが、熱意のある方を選んで欲しい、効果的な演出をお願いしますとの意見がありました。集団見合いも大切ですが、昔の仲人にように、個別に時間をかけて深く関る方が効果があると考えました。成功報酬など必要かと思いました。
 子育てでは、凍結によるバイパスでの事故が多く、冬期中の中学生に対するスクールバスの運行を考えて欲しいとの要望がありました。日が短くなり、安全面からも特に、女子生徒の下校に配慮したいと思います。また、子どもの貧困対策についても意見が出て、就学援助の拡充について考えさせられました。また、放課後の子どもの居場所づくりについても要望があり、地域の高齢者の皆さんのご協力が必要かなと思いました。
 イベントの持ち方については、良い講師を選んで欲しいということと、子づれで二時間も話しを聞くのは大変との意見があり、町民が町の行事に積極的に参加ができるようにするには、小さなお子さんをお連れの方には配慮は必要と思いました。
 この他、外国語は小さいうちに発音を修得することは大切なことで、道の駅の子どもの遊び場の傍らに喫煙所があるのは問題など、鋭い質問があり、大変参考になりました。
 町民の皆様から町民生活全般のサービスの設計から実施まで任せられている役所にいる者の心掛けとしては、町民から出される意見や要望を他人事のようにとらえるのではなく、また町行政のことは自分たちが一番知っているのだというような高い所に立つのでもなく、自分のこととして理解し、教えてもらうという謙虚な姿勢が大切だと思います。聞き上手になると、相談に来た人から泉のように何でも教えてもらえるこ
とを知るべきだと思います。例えば、高齢で一人暮らしの病弱な方がゴミを出せないで困っているという相談があれば福祉の制度設計の立派なヒントです。大切なことは、地域の専門家としての住民の力を信じること、語り合うことの中で、お互いが自分事として地域の物語が共有できるようになること、これが福祉の町づくりの最初の一歩です。
平成27年11月
今日は十五夜です。今日は二十五日なのになぜなんだろうと思いますが、月を愛した昔の人は太陰歴という旧暦を使っていたことから、今夜は旧九月十五日の月ということで十五夜の月というのだそうです。十五夜の月を見て十三夜の月を見ないと、片身月と言って縁起がよくないということですから、今夜はしっかりと見てみましょう。
 十五夜のもちの月を見て「望月の欠けたることもなしと思えば」と詠んだのは、藤原道長です。藤原氏の全盛期というと教科書などでは、道長が政治の中枢の太政官の最上位である太政大臣にまで上りつめ、三人の娘を、一条、三条、後一条とそれぞれ三代にわたって天皇の中宮(皇后)として入内させたことから、十円玉にある平等院鳳凰堂が建てられた平安期と決まっているようです。
 しかし、藤原氏の独裁体制の基盤を築いたのは、娘の宮子を文武天皇の夫人とし自らは右大臣に昇進するとともに、さらに外孫の首皇子(聖武天皇)を皇位につけ、娘の安宿媛をその皇后につけた藤原不比等です。不比等は天皇をたすけて大宝律令という政治制度をつくり、都を七一〇年に平城京に移し万全な体制をしくことに成功します。不比等の父である大化の改新の功臣鎌足は当初中臣氏を名乗っており、政事を司る子の不比等の系統以外は中臣氏を称しています。この中臣氏は朝廷にあって神事を司ることとなり、鎌足が鹿島生まれであることから、鹿島神宮を氏神としたとあります。子の不比等は神護景雲二年(西暦七六八年)に一族の氏神がある鹿島神宮より分霊し、奈良の都に春日大社を祭ります。その一年後に、市貝町赤羽の地に「正一位相休社鹿島大明神」が造立されることになります。
 祭られている神は、タケミカヅチノカミであり、日本書紀には武甕槌、古事記には建御雷と出ています。ミ・イカヅチとは雷様のことで、正一位という最高の位を持ち、明神に大をつけられ尊ばれたことが分かります。建御雷神様は、アマテラスの命でオオクニヌシに国護りの話しを持ちかけ、その子と相撲をとって勝ち、国をもらい受けられた神様です。ちなみに赤埴城が造られるのが安土桃山時代ですから、それよりも八百年も早く鹿島神社が建っていたことになります。おそらく近在では最も古いお社ではないかと思います。このたび地域の人々の篤志で社殿に屋根が掛けられ立派になりましたが、近年鎮守の森といわれる社殿を囲む森が厚みを失ってきています。かつては、村人の心の安らぎの場所の避難先として使われ、貴重な生き物も残っています。市貝町の名所旧跡の一つとして大事に守り発信してまいりたいと思います。
平成27年10月
市貝町は、これからの十年を見越して、どのような町にしたいのか、どのような町に住みたいのか、さらに、どのような町だったら魅力があり、たくさんの人に来てもらえるのかについて、計画をつくっています。このため、公募委員を含めまちづくりに関心のある町民二十名ほどで構成される「まちづくり委員会」において、市貝町の現状や課題、解決策の提案などを話し合い、七月に報告書をまとめています。
 委員会は四つのグループに分かれ、生活環境グループは、「豊かな自然がずっと守られて行く」「自然の中でのびのびと育つ子どもたち」「道路は砂利道がなく、外灯がともる」。保健福祉グループは、「お年寄りが元気な町」「介護の心配のない町」「安心して子育てできる町」。産業振興グループは「小さい産業がたくさん活躍している町」「若者や高齢者の働く場所のある町」「サシバブランドの確立」。教育文化グループは、「保育料、授業料免除、医療費十八才まで無料」「子どもが安全に遊べる」「サシバの里づくり」など立派な十年後の町の姿を描いています。
 これを受けて、役場職員からなる計画策定委員会は、「自然と人間が響き合うまち」とし、五つの基本目標を掲げました。@美しい里地里山
でつながり支え合う安心なまち、A子どもから大人まで地域で誇りを持って生きられるまち、B若者から高齢者まで生きがいと希望を持って暮らせるまち、C誰でもどこでも育み学びあえる魅力に満ちたまち、Dみんなが参画しみんなで決める自治自立のまち、です。このような案に対し、幅広い分野から意見をいただくために設けられた振興計画検討委員会が最後の調整を行っています。
 私の後輩が三鷹市において、無作為抽出で選んだ住民一〇〇人に「地域での支え合い」「災害に強いまち」「活力と魅力あるまち」「環境にやさしいまち」について五回も討議会を開いてもらい、総合計画をつくりました。コンサルタントは入っていません。三鷹市だけに合った計画をつくろうと、住民と職員でつくりました。手づくりの振興計画をつらぬく理念は、人口や経済の拡大を目指す都市から社会問題に深くアプローチし、社会責任を果たせる都市への転換です。人口減少は環境を重視しながら豊かさを追求するチャンスと考えています。サシバの里づくりは、まさにその通りのまちづくりです。消費による見せかけの豊かさではない、安心と心のうるおいが感じられる本来の豊かさを目指す計画にしたいと考えています。
平成27年9月
今年は終戦後七十年を迎えるということで、連合国軍と日本が戦った太平洋戦争について考える機会がありました。特に、特別攻撃隊を送り出した鹿児島県鹿屋の航空基地や沖縄戦の終えんの地である摩文仁には町村会で行くこととなり、死の途につく人々が見た光景を七十年の歳月を経て、自分も見ることとなりました。
 特別攻撃隊は、初期の段階ではベテランの操縦士がフィリピン沖などで勇ましく敢行したようですが、戦争も終盤になる沖縄戦では、十七歳の少年から一般の大学を卒業したばかりの学徒兵までの未熟な搭乗員が敵の艦船に挑んだということでした。離陸ができるようになったばかりの、水平飛行すらままならない若者が一人前の特攻兵と呼ばれ、しかも飛行機は不足していたため練習機を用いたということでした。これを迎え撃つアメリカ軍の戦闘機には、動く航空母艦から離発着できるベテランのパイロットが搭乗し、360度死角がない機銃で狙い撃ちをしてくるのだということです。運良く戦闘機をかいくぐり敵艦に近づけても、今度はレーダーの網と空中で自動炸裂する砲弾が待っていたということです。沖縄戦に参加した特攻機は一千四百機に上り、日本の国を担う大事な若者をたくさんなくしたと絶句いたしました。最近、特攻隊にまつわる話しを聞くことが多くなりました。鹿屋の航空資料館もそうでしたが、私が実際に特攻にかかわった人々の証言を集めてみると、「お母さん、さようなら」と散華して行った若者が多かったと伺っています。
 沖縄戦は、首里城地下守備隊が放棄して南に撤退してから、避難していた三十万の住民を次々と戦闘に巻き込んで行きました。沖縄戦での民間人の犠牲者約九万四千人のうち、およそ8割は日本軍が移動してきてからだと言われています。火炎砲戦車とガソリンを含むナパーム弾で追いつめられた住民は、摩文仁の丘で最期を迎えたと伝えられてます。丘に上って南の海を望むと、紺碧の海が目に飛び込んで来ます。海の底は最深部で七千五百メートルもあり、琉球海溝と呼ばれますが、海岸にたくさんあった自然洞穴の中で歌っていたという、ひめゆり部隊の少女た
ちの歌声が、風に乗ってかすかに聞こえたような気がいたしました。
 アメリカと日本の国力の差は、圧倒的に開いていました。アメリカは、太平洋の島々に点在する日本軍民に対する補給を全て遮断すれば、根を切ったブドウのように枯死すると読んでいました。しかし、この作戦の中でたくさんの命が失われました。平和な日本を築くことで、この人たちに報いなければならないと思います。
平成27年8月
市貝町内の元気で良い子の小中学生との懇談会を、7月6日から10日までの5日間にわたり行いました。北は小貝小学校から南は赤羽小学校まで一中学、三小学校において、七夕と重なり、様々な質問や願いを寄せて下さいました。ご協力下さいました、校長先生や教頭先生に御礼と感謝を申し上げます。
 今回の懇談会では町に対する質問や意見、或いは要望を頂くだけでなく、町では今後十年間の町のあり方を描いた第六期町振興計画の策定に合わせ、町内の小中学生に対し市貝町の「好きなところ」、「嫌いなところ」、それから「将来どんな市貝町
になったらいいか」のアンケートの回答に協力していただきました。
 まず市貝中学校の生徒さんからの意見です。「好きなところ」は豊かな自然が残っていて、心が安らぐという意見が多く、出席者十五名中、全員がそのように評価されていました。その次に多かったのが、住んでいる人がやさしく温かいというものでした。その他野生の小動物に会えること、事件事故がなく平和で静かなところという順でした。「嫌いなところ」で最も多かったのは、お店が少ないことで15名中7人の方がそう答えていました。次いで歩道などがなく危険であることが6人、防犯灯がなく暗いことが4人でした。「将来こんな町になったらいいな」では、人口が増えて活気のある町を望む生徒が5人で最も多く、二番目に緑を残すことについては3人の方が希望され二位でした。「町全体でエコ活動ができている町」「観光地になっている」などそれぞれ一人でした。
 次に小学生に「好きなところ」はとたずねると、赤羽小、市貝小、小貝小の三校ともに緑が多く自然が多いところと答えていました。「嫌いなところ」は赤羽小と小貝小ではお店が少ないことを、また市貝小では公園が少なく、遊具が充実していないことをそれぞれ挙げていました。将来の姿については、赤羽小ではお店が増えていること、市貝小では事故が少なく安心して暮らせる町、小貝小が学校にエアコンがついているといいという意見が多くありました。
 この他の意見では、市貝小学校の児童から、特に役場について、トイレをキレイにして欲しい、障害者のトイレが少ない、人がたくさん来るところなので、花や木を植えて心が和むようにしたらよいなど大人顔負けの立派な意見がありました。
 小中学校からいただいた貴重な意見は、これから作る町の振興計画に反映させていただきます。
平成27年7月
宮沢賢治にはトシをはじめ三人の妹と弟がいましたが、弟清六の孫にあたる宮沢和樹さんが町の生涯学習講座・教室の開講式に来町されました。雪国の雪のように純朴で、薪のように温かそうなお人柄で控室では恥ずかしそうに顔をほてらせ、笑顔で私たちのたわいもない質問に受け答えして下さいました。
 さすがに身内の方ですので、講演では本や解説本では知りえない賢治の真の姿や影の姿について話しが及び、あっと言う間に限られた時間が過ぎたような感じでした。例えば、余りにも有名な「雨ニモマケズ」の話しでは、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の「ヒデリ」は、実は賢治本人が書いた文章には「ヒドリ」と書いてあるということなどが紹介されました。「ヒドリ」とは、昔、この辺でも言われたように、日雇い仕事のことで、厳しい雪国の農村の農家はヒドリをしないと暮らして行けなかったとおっしゃっていました。
 宮沢賢治は、明治二十九年に三陸沖大地震と大津波が発生した年に生まれましたが、被災した農家が差し出す衣類や家財を元手に金を貸す生家の質業に反感を持って成長しました。次第に農家のために役に立ちたいという気持ちが高まって行き、地元の農学校の教師となるに及んで、農家の暮らしが成り立つように天候や肥料などの相談にのるようになりました。一人の幸せはみんなの幸せがあって初めて成り立つという信念の下に、菩薩の行に生きます。死の直前まで農家の肥料の配分の相談にのっていたということでした。
 賢治の最晩年の作品に「グスコーブドリの伝記」という小説があります。ブドリは、イーハトーブ火山局に就職し、爆発する火山が発する鎔岩を、人家のない方面に工作して流す仕事をしています。ところが、恐ろしい冷夏が迫りつつあることが分かり、唯一の回避策は、カルボナード火山島を人口爆発させ大気の温度を上げるしかないということになりました。しかし、この工作のためには、必ず一人が島に残り最後まで操作を続けなければなりませんでした。ブドリはその一人になることを決心し、人工爆発を起こし、イーハトーブの稲作状況は、ブドリの命と引き替えに平年の作柄になったということです。
 「サウイフモノニワタシハナリタイ」と思うのは私だけでしょうか。
平成27年6月
私の仕事は、町民の生命、自由、財産を守ることです。このため様々な人が私を訪ねて来てくれます。偉い人よりも生活に悩む人が来られるのが一番の喜びです。無い知恵を絞り出しながら、一緒に悩んであげています。
 そんな中、私と同じように悩まれる県社会福祉士会長のHさんにお目にかかる機会がございました。三顧の礼に習い、数回お話しして、森鴎外の「高瀬舟」を勧められました。
 主人公喜助は、中年の住所不定の男でしたが、弟殺しの罰をもって遠島を申しつけられた折、往路舟中での同心羽田某との会話をつづったものです。喜助は両親を早く亡くし、子供のころは町内の人から軒下の子犬にふびんをかけるようにお恵みをかけてもらっていましたが、大きくなるとそういうこともなくなり口に糊する暮らしをしていました。そのうち、弟が病気で働けなくなり、喜助が運ぶ食物で命をつないでいましたが、兄を自由にするためにカミソリを喉に差し込み自殺を図ります。しかしカミソリが抜けずこれが止血の作用をしていたため、兄にせがんで抜いてもらったのです。
 喜助は罰を喜んで受け、島でやり直そうと決心します。
 この話しの間には、喜助の語りに自分の身の上を照らし合わせながら、喜助に同情ばかりかついには尊敬の念を寄せる同心羽田某の心象が見事に描き出されています。
 今度は私から、皆さんに、中島敦の「牛人」を勧めます。魯の太夫・孫が病に伏し、縁あって牛を側近くに置き溺愛していました。孫は病が次第に篤くなって行くのですが、牛は見舞いに来る者を病人に合わせず取り継ぎだけをするのでした。外目には牛は太夫の信頼が厚く牛の言うことは孫の言と信じて疑われません。ところが、牛は見舞いの者の用件も、また太夫の答えも全く違えて伝えるのでした。それどころか牛は得体の知れない笑みを浮かべ、人間離れした冷酷さをたたえて病床の孫を上から見下すようになって行きました。孫は、始め恐怖を感じましたが、人知を超える大きな悪に対する恐れに変わり、牛に抵抗する気力も失い全てをあきらめました。魯の名太夫・孫は餓死したと伝えられるのです。
 これら、二冊をもって人に対する者の心得といたしたいと思います。
平成27年5月
安倍政権のメディアの利用は、とても上手です。私も新聞記者をやっていたので、つくづくそう思います。しかし、役所は一般に自分のやっている仕事をPRするのは余り得意ではありません。ある町の議会で福祉サービスについて住民に分かり易く説明すべきだと質問したところ、課長が予算が限られているのでたくさん利用されるとお金がなくなるような答弁をし、ひんしゅくを買うということがございました。そう言えば、町の施策を町民の皆さんにお知らせする機会は、本当に少なく感じます。行事でのあいさつは、時候のあいさつに続いて平素のご協力に対する謝礼、最後に発展への祈りを述べてお仕舞いということで、天プラの衣のように何も残りません。町の計画づくりのアンケートの中にも、町の子育てや福祉サービスのことが分からないという意見が多数寄せられてました。長くなってもあいさつの中に町のアピールを挟み込む必要があるのかもしれません。
 市貝町の福祉の施策は、日本一の子育ての町としてマスコミで取り上げられている自治体と比べ、それほどかけ離れた内容ではありません。ヒブ、肺炎球菌ワクチン、ロタウイルスなどほとんどの予防接種に助成があります。健康診断も無料ですし、出産準備金も交付することとなりました。また、他に先駆けて授業料免除の土曜スクールを開設しました。今後の課題は、こども医療費の現物給付の対象年齢引き上げと、第二子以降の保育料の減免の充実です。
 高齢者の皆さんには、市貝温泉を健康づくりの拠点に位置づけ、様々なイベント、教室を催します。帰りのデマンドバスは無料としました。今年度の福祉施策の目玉は、社会福祉協議会のある保健福祉センターに、これまでの定期的な困りごと相談に加え、地域密着型の相談員を常駐させ、一つの窓口で生活や福祉の悩みのほとんどについて相談に応じ、専門機関につないで解決できるようにしたことです。制度、施策の情報を知らない、また知ろうとしない、さらに知らないということを知らないことにより利用できないという情報の壁を打ち破り、医療、介護福祉のサービスの幅広い活用によって、安心して住み慣れた地域で暮らして行けるようにして参りたいと考えます。
平成27年4月
市貝町で、たった一つの中学校で卒業式が行われました。三田校長指導の下、日本一のあいさつ運動に取り組まれ、町外のお客様は立派な中学生ととても評判のよい中学生でした。卒業生徒数は116名で、統合した私のころと比べ、70人余りも減ってしまい、人口減少のあおりをひしひしと感じました。
 卒業式のスローガンは「感謝・希望・飛翔」の三つでしたのでこれに合わせてお話しをさせていただきました。「感謝」では二つの感謝をお話しいたしました。一つは親に対する感謝です。世の中が株安だ円安だと金もうけで沸騰してる中で、対価を払わないでも凍てつく寒空の下、車の暖房を一杯につけて温かく迎えてくれる親がいる。経済学の原理に背反する無償の愛を、親の姿を通じて学んだはずです。
 もう一つは、町で唯一の中学校ということで町民の期待を一身に受け、大きなプレッシャーの下精一杯指導してくれた先生に対してです。
 次に「希望」については、明治のベストセラー福沢諭吉の「学問のすゝめ」の一節「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」を引用いたしました。福沢家は大分県中津藩の下級武士でしたが、藩主奥平家は元宇都宮藩の領主で、藩を二分して茂木町の深沢を拠点に江戸で敵討を挙行したために、九州に移されてしまいました。奥平家は武門の譜代大名であったため身分統制が厳しく、父百助は有能でしたが出世することができず、諭吉は、身分を親の敵とうそぶきながら学問に精励し、慶應義塾を創立しました。こうして生まれや門地にかかわらず、学問一つで身を立てられることを世に証明してみせたのです。
 フランスの詩人アラゴンが「教えることは希望を語ること、学ぶことは誠実を胸に刻むこと」とうたうように、真理や真実を探求し、夢と希望につなげて欲しいと激励しました。
 最後に「飛翔」ですが、世界一のサシバの子育ての町にふさわしくサシバのように雄々しく飛び立ち、将来再びサシバが戻ってくるように市貝町に帰ってきて下さいとお願いいたしました。これこそが人口減少を食い止める最も身近で速効性のある方策であると確信するからです。卒業生の皆さん、再び成人式でお会いしましょう。
平成27年3月
「梅開早春」梅のつぼみは最も厳しい冬の間に咲くための養分を懸命に蓄え、そして春は貧しき者にも苦しむ者にも分け隔てなくやって来ます。
 東日本大震災から四年目を迎えます。今年観音山梅の里には、栃木県内に避難しているふくしまあじさい会から50名ほどの被災者の皆様がやって来られます。地元には大変お世話になります。
 人と人とが助け合うように、町と町とが助け合うこともあります。ゴミ処理や消防など、一つの町でやるには行財政能力が小さいために、いくつかの町や市が協力し合って事務の共同処理を行っています。
 芳賀郡内には、ゴミ処理を行ってきた芳賀郡中部環境衛生事務組合が市貝町赤羽と益子町七井の町境にあります。同組合は益子町、茂木町、市貝町、芳賀町の4つの町で構成され、6万7千人余りの地区住民から排出されるゴミを焼却処理してまいりました。このたび真岡市を含む一市四町で運営する芳賀地区広域行政事務組合において、真岡市井頭に新たに焼却処理施設を稼働したことにより五十年余りに及んだ使命を終え、平成三十一年度を目途に組合を解散することとなりました。このため、組合が所有する財産を全て処分することとなり、市貝町北部にある最終処分場予定地もその対象となっています。同組合で二年ほど前から話題に上がり、市貝町議会においても昨年三月より全員協議会で議論されてきました。九月十九日には同組合の管理者である大塚益子町長が来庁され、説明を受けたところです。
 最終処分場は迷惑施設と呼ばれ、建設には周辺住民の抵抗運動に遭遇し、容易にできるものではありません。そこで、平成八年に構成四町が痛みを分かち合うという趣旨から今後の計画は益子町に続き芳賀町、そして、市貝町に建設するということで合意がなされました。茂木町の処分場もこの間使用させていただきました。
 芳賀町には用地を約五千八百万円で取得し、最終処分場を建設中です。市貝町では、平成八年に塩田地内に建設用地を取得いたしました。当時のお金で四千九百万円ですから、最終処分場建設の代償はいかに大きいかが知れます。組合の管理者からは、同用地は評価額(一割相当額)で払い下げるので、代替地を提供して欲しいとの案を出されました。それぞれの町議会の正副議長で構成する組合の議会が最終的に案を決めますが、市貝町議会が同意しなければ、究極のところ予算は決まりません。各町の町長の間からも取得額の半額等様々な案が出され協議を続けています。広域の議会、町議会、各町の町長とが慎重に協議を重ね、より良い方向でまとまるよう鋭意努力してまいります。
平成27年2月
健やかに新年を迎えられ、お祝いを申し上げます。
 町広報1月で年頭のあいさつを申し上げましたが、新暦の元旦は、気象や農作からみても「初春」にはほど遠く、日本の気候、風土には陰暦の方がより適切でなじみやすいと思います。赤埴城の殿様の子孫が赤穂浪士の一人となって、下野国御家人、小山氏の子孫である大石蔵之助と吉良邸に討ち入ったのは旧暦十二月十四日、新暦の二月二日ですから、当晩大雪であったというのはうなづけることです。ちなみに旧元日は二月十九日です。そのころは、梅の花もちらほらと散見できることでしょう。
 一月十日には、一日早く新成人の皆様に対し、成人式を挙行させていただきましたが、出席者全員が大層立派な成人で驚きました。おそらく、このような立派な成人を迎えることができた自治体は、全国の市町村の中でも数少ないのではないかと思いました。式中誰一人私語を発する者は見られませんでした。
 成人式に臨み二つのことばを贈らせていただきました。一つは「栄華を極めたソロモンでさえ、野の花の一つほどにも着飾ってはいなかった」新成人の皆さんがどんなにご両親に着飾らせていただいても野の花よりも美しくはなれない。大切なことは、スーツや着物の中にある自分自身を高めることですと申し上げました。
 もう一つは「逆境の中に居らば、周身みな鍼砭薬石、節を砥ぎ行いを研きて覚らず」ということばであり、困難に苦しんでいるときこそ、知らぬ間に人格がみがかれているのだと申し上げました。
 最後に、市貝町は、政府の特許庁から「サシバの里」の商標を取り、単なる商品だけでなく町全体を売り出していると、町づくりの概況を
説明申し上げ、お陰様でチャレンジ精神に富む若者が移住してきていると報告いたしました。その中の一人に昨年結婚し、続谷に転入した遠藤君がおり、里山の自然と共生する暮らしをテーマにした体験型の自然学校の設立を目指すということです。
 立派な成人の姿を一人ひとり見つめながら、この青年たちのうち一人でも多く市貝町に戻って来て欲しいと思いました。そのためには、生活
を支えるための安定した職業が市貝町内や近隣にあることが前提になります。今年から町のブランド品開発に着手しますが、生産、製造はもと
より、販売にも、組織と人材が必要になります。また、お年寄りが増えるのに伴い、新たなビジネスチャンスが生まれます。ボランティアだけ
ではなく、生業として成り立つように育て、一人でも多くの若者が帰ってこれるよう仕事をつくって参りたいと思っています。
平成27年1月
うれしいこと、つらかったこと、年の瀬となり時の流れがよどんでくると、様々な想い出が去来してくるものです。良かったことはさらに伸ばし、悪かったことは素直に反省して明日の生きる糧といたしましょう。
 私の記憶の中で最も多くを占めるのは、福島県東日本大震災被災者の方々との出会いです。市貝町は四月に定住促進の被災者支援事業を立ち上げ、被災者の皆様に緑豊かで安全安心な市貝町にどうぞということで始まりましたが、福島市、桑折町、郡山市と一千戸を超える応急仮設住宅を訪れ、直に被災者の生活を拝見し考えが変わりました。鉄板一枚の屋根と間仕切りでプライバシーどころか、夏はうだり冬は凍てつく寒さの中での生活でした。定住人口の誘致ではなく、人道支援であると大悟しました。
 市貝町は犯罪の発生率が県下で最も低く、サシバが三千キロを渡る日本一美しい里地里山に囲まれ、サシバの子育てを優しい目で見守る町民が住む桃源郷です。環境保全と合致した農業を生業としたいと思う若者や心の傷のいやしを求める人には、懐の深い里です。
 市貝町の発展にとって、平成二十六年は画期的な年となりました。主要地方道宇都宮茂木線のバイパス道路が全線開通となり、町内を走る
交通の流れが大きく変わるとともに、県都に至る道路事情が改善され、所要時間が大幅に短縮されました。バイパス沿線には平出、清原および芳賀工業団地という内陸型では日本最大の工業団地群が広がりますが、市貝町はその延長線上にあり、県都のベッドタウンとして大きな可能性を秘めた町です。
 平成二十七年度は、沖縄宮古島では神の使いといわれるサシバを町づくりのシンボルとして、子育て、農業、福祉の土台を整備し遠距離通学の児童生徒を犯罪から守るために、スクールバスを拡充します。包括的子育て支援の一環として出産助成金を創設します。また、都市生活者に選ばれる安全で栄養価の高い農産物を育てるため、減農薬、減化学肥料に向けた堆肥利用の農業の育成を目指します。さらに、ボランティア活動には町内で使えるポイントを差し上げ、家で予防や介護を行う一人ぐらしのお年寄りなどを支える体制をつくります。
 この他、笹原田石下線を改良し、昔ながらの集落間の交流を復活させます。引き続き芝ざくら公園に至る塩田続谷線と、市塙椎谷線の改良を進めます。
 市貝町は、東日本大震災からの「復旧・復興」で終わるのではなく、また、修復前の状態に戻る「再生」でもなく、サシバの里に向けて「進化」しています。町民一人ひとりがやる気を起こし、夢と希望にあふれ、自信に満ちた町をつくろうではありませんか。
本文終わり
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